タイガースはデザインワークに関して、日本球界では珍しく歴史的に一貫したスタイルを持っている球団である。球団旗や胸マークのロゴから袖章の虎のマークまで、創設時の基本スタイルを守り続けているのは、日本球界ではこの球団だけである。
これは球団創設期にデザインに関するコンセプトワークがしっかりと行われていたからだと思う。
いつも思うのだが、黄色と黒の横縞に虎の顔が描かれた赤い丸を配置した球団旗は絶妙なデザインである。そしてタイガース・ファンならご存知のはずだが、虎の顔は球団旗と袖章では顔の向きが逆になっている。
しかしなぜ顔の向きが逆になったのかなど、その誕生のいきさつについては、厳密にはわからない部分が多い。ただし職業野球連盟のリーグ戦がスタートした1936(昭和11)年には、すでに袖章も球団旗も存在していたのは確かで、戦時中も虎の袖章と縞模様の球団旗はそのままの形で使用されていた。
球団旗以外でも、ポスターなど、大阪タイガースおよび甲子園球場関係のデザインは秀逸なものが多い。これらを手がけていたのは阪神電鉄でデザインを担当した早川源一氏だ。ポスターなどは他球団と比較すると、格段にモダンで完成度が高く、彼がかなり優秀なグラフィック・デザイナーだったというコトがうかがえる。
つまり早川源一というしっかりとしたコンセプトワーカーがいたおかげで、現在の阪神タイガースの伝統のスタイルが存在していると言っても過言ではない。ただし袖章の虎は間違いなく彼の手によるものなのだが、ユニフォームの他の部分について、彼がどこまで関わっていたのかは不明である。
阪神球団には本人の手によると思われる虎の原画が数点残っている。球団で見せてもらったいくつかの原画はポスターカラーで描かれていて、顔の向きは右側。つまり袖章用の図案ではなく、球団旗タイプだった。そのうち一点の図案には、上から碁盤の目が描かれていた。これはコピーをはじめとした複写機のなかった時代の模写のための工夫で、分割して描くことで、第三者が同じ図案を描くことが可能だった。
しかしそういう工夫はあったが、当時は肉筆だったため、ひとつひとつの虎の絵を見比べて行くと微妙な違いがところどころに見受けられる。しかしこれもまた、なんともいえない味があったりする。その後も早川源一氏はタイガース・ファンの間で有名な「大阪タイガース来る」のポスターをはじめ、セントラルリーグ初代の連盟旗、そして70年代にいたってもオールスター戦のポスターを手がけたりしていて、76年に亡くなるまでプロ野球を意匠、デザインから支えた功労者だった。