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戦前・戦後篇 1945年~1948年
綱島理友のユニフォーム物語 ユニフォームのイラストをクリックすると詳細が見れます。
藤村富美男
藤村富美男

1945年のみ使用

1946~1948年使用

 戦後すぐに復活した職業野球だったが、とにかく時代は食うや食わずの物資不足。ユニフォームをはじめとした野球道具を揃えるのはたいへんだった。

 その点で比較的恵まれていたのが大阪タイガースであった。

 「空襲が激しくなった昭和19(1944)年ごろだったかな。甲子園球場の倉庫にしまっていたユニフォームの反物なんかを、選手寮の協和寮に運んだんですよ。球場みたいな大きな建物は空襲の標的になるっていうのでね。選手たちがエッチラオッチラ、みんなで抱えて運んだの。私も運ばされましたよ。それが戦後、残っていたんだね」

 と、ボクに語ってくださったのは、戦時中、阪神軍の選手だった宮崎剛さんだ。

 そのおかげでタイガースは、戦後職業野球が復活するとすぐに、縦縞のユニフォームも復活させるコトが出来た。ただし戦前もけっして物資が豊富ではなかったので、残っていたのはグレー地の反物だけ。

 そのためストライプが復活したといっても、グレー地のユニフォームのみ。しかも生地はユニフォーム本体用しかなかったため、胸マークや袖章などの装飾はいっさいついていなかった。

 45年の11月に行われた東西対抗戦に出場したタイガースの選手たちは、Tigersの胸マークのついていないユニフォームでプレイをしたようだ。

 Tigersの胸マークが復活したのは46年のシーズンからだ。

 しかし戦火を逃れ戦後すぐに活用されたグレーの縦縞のユニフォームだったが、使用期間は48年あたりまで。三年が耐久限度であった。そしてそのあとも物資不足の時代が続いたために、グレーの縦縞に変わるユニフォームとして採用されたのが、あのダイナマイト打線を象徴する濃紺のユニフォームであった。

 一方、現在のホーム用にあたる白いユニフォームは、無地の生地で作られたものが47年から登場している。そしてこちらに縦縞が登場するのは53年。ずいぶんとあとだった。

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